剛球投手
ノーヒットノーラン(1920年9月28日 対法大2回戦)
【寸評】
1901年7月8日-1955年12月11日 54歳没
神戸二中(1916-1919)-明治大学(1920-1923途)-中島鉱業所(1923途)-大毎野球団(毎日新聞)(1924,1926-1928)--朝鮮総督府(全京城)(1929)-台北交通団(1930-1945?)-宇高レッドソックス総監督(1947)-小口製作所監督(1948-1949)-大洋ホエールズ総監督(1950)-学習院大学監督(1955)
1920年代前半の明大エース。神戸二中時代は島田叡主将*1の下、関西球界に名を馳せる。明大でも1年ながらエースに定着すると、その荒れ球を武器に活躍した。1923年、いろいろあって明大を中退すると、以降は社会人野球で活躍。とくに台北交通団の4番兼エースとして活躍したことで、台湾球界に強い影響力を発揮。高雄商・大下弘を母校・明大に引っ張ったのは、ひとえに渡辺の力である。終戦後、人脈を生かして宇高レッドソックスや大洋ホエールズ総監督などを務めるが、プロでは目立った成績を残せず。1955年には学習院大監督として、同校を創部初のAクラスに導いたが、同年オフに脳出血のため急死した。元巨人の手塚明治は娘婿。

・明治大時代(1921年)



パワナンバー 12200 00987 45689
・査定について

「三振か四球か死球か」と言わしめた伝説の投手。
「打ってみやがれ くそくらえ
ぐずぐずぬかすと ぶつけるぞ
痛えのは俺じゃねえんだ 貴様だぞ
アンパイヤの野郎がボールだなんてぬかしたら
今度はアンパイヤにピーンボール」
byサトウハチロー
・投球フォーム




(1922年11月13日 早明2回戦 投球練習のコマ撮り写真)
1番近かったのは明石中・楠本保。
明石中・楠本保
— うさうさ(くますけたの日記) (@kumasuketa) 2026年8月14日
トルネード投法とか言われてたけど、思ってたほどではない? pic.twitter.com/uEreBWuzoJ
一度お尻を打者に向けてから、トルネード気味で投げていた。
大毎時代からは、兵役の影響でやや横投げのフォームに変えたという*2*3。

・球速
当時の球界最速クラス。
1950年の大洋監督就任時、当時を知る関係者の評価では、別所(巨人)や梶岡(大阪)、真田(松竹)スタルヒン(大映)よりも速かったという。
・スタミナ
四大学初登板では200球越えなどスタミナ有り。
・変化球
基本はドロップとアウトドロップ、シュート。
1試合だけスローボール(チェンジアップ)も投げていた。
暴れ球 四球 抜け球
「三振か四球か死球か」と言われた投球スタイル。
投球フォームの関係で球の出どころが見えにくく、元々の制球力がないため、いつ死球が飛んでくるかわからない怖さを秘めているいったいどこのフジなんでしょうね。
初登板でいきなり11四球・1死球と片鱗を見せていたが、1922年4/15の早大戦での3死球は伝説に(3連続死球との文献もあるけど、さすがにそこまではひどくない)。

(1番打者の頭部にもろに直撃したときの図。全治2週間)
奪三振
落差の大きいドロップを保持しているため、奪三振力は高い。
1921年の極東大会予選では、セールフレイザー相手に13回を投げて27奪三振を奪う好投をみせた。
ただ、1931年に発行された『成文堂 野球叢書』に寄せたコラムでは、「三振をとるより打たせて取るほうが投手として素晴らしい」とコメントを残しているように、あまり三振自体にはこだわりはなかった?
変化球中心
投球割合のほぼすべてがカーブ系。
1923年度開幕戦での勝利インタビューでは、「今年から直球をもう少し投げていきたい」と語っている。
クイックF 対ランナー×
入学当初、投げるたびに「ヨヤハッ!」「ヨヤハッ!」と声を出していた。
本人曰く「神戸ではこれが普通だった」とのことだが、当時でも評価は芳しくなく、「田舎者丸出し」「口さがなき京童はさっそくヨヤハ投手という渾名を贈呈した」など散々な言われようなお当時の「野球界」では本当にヨヤハ投手表記だった模様。
次第にそう言われることがなくなっていったため、「ヨヤハッ」とは言わなくなっていったようだが、トルネード気味の投球フォームの関係上、「ランナーがいるとペース等がおかしくなる」とは橋戸頑鉄談。
実際、通常時被打率が.174に対し、1塁ランナーがいるときの被打率は.196(199-39)と苦手にしている。
対ピンチE
得点圏被打率 .200(344-69)
非得点圏 .163(803-131)
対左打者F
対右打者 .171(1049-179)
対左打者 .214(98-21)
重い球
法大戦で達成したノーヒットノーランでは、外野飛球は1個だけ。
法大相手とはいえ、これはすごい。
スロースターター
当時から立ち上がりが悪いと言われていた。
実際、1~2回での失点が、全体の40%近くを占める。
ボール先行

(判明分のみ)
・台北交通団時代(1931年)




パワナンバー 12900 40917 45707
・査定について
大毎時代のアメリカ遠征の影響や球速が落ちてきたことで、緩急をつけるピッチングスタイルに。
・打撃能力

「雲の中に消える」と称された高弾道打者*4。
渡辺が明大入学を斡旋した大下弘の打球は、「虹をかけるよう」と評されたが、渡辺の仲介であることを知った関係者は、みな納得したという。
投球と同じくムラがあるバッティングだったが、その長打力は折り紙付き。
明大在学時から、1939年の都市対抗までのほぼすべての試合でクリーンアップを務めたほか、1931年日米野球代表選手を決めるファン投票では、投手部門での選出ながら代打部門でも次点に選ばれるなど、球界屈指の長打力があった。
打者としては典型的なプルヒッターだが、ときおり右中間にも長打を飛ばしている。
走力は体型もあり、明大時代から鈍足。
リベンジ
計7回の都市対抗出場で、コンスタントに安打を放っている。
寸前×
終盤の失点が多い。
終盤が苦手というよりは、年齢からくるスタミナ不足の面が大きい?
一言
性格面では悪い話を聞かないんだが、監督として良い話も聞かないよね。コーチとしてはそこそこ良い指導者だったぽいけど。
渡辺の人柄について詳しく知りたい人は、唐嘉邦の『台北野球倶楽部の殺人』を読もう。
台湾の野球愛好倶楽部内で起こった殺人事件についての話で、渡辺が唯一の実名で容疑者役で登場するぞ!

明大を退学した理由が、まじでどこの新聞・雑誌を探しても載っていなくて、ブチ切れてた(ていうかいつの間にか退部が既成事実となってた)。
1974年発行の野球部史で当時の関係者が証言しているのが、たぶん唯一の情報です。
↓当時の読者投稿欄より。わかるぞ、その気持ち
